昭和45年5月19日 朝
信心の心得 一つ、信心する人は何事にも真心になれよ
信心する人は何事にも真心になれよ。簡単なみ教えでございますけれども、なかなか難しい事でございます。信心する人は何事にも真心になれ。ですから、ここの信心の心得とこうあります。信心の心得として、信心する人は何事にも真心になれよと。まあ簡単に言えばそれだけですけども。その今度また、この御神訓の信心する人は何事も真心になれよと言う、また心得がいるという感じですね。
信心する人は何事にも真心になれよと。これがまあ信心の心得。ですから、なら何事にも真心になろうとこう、心を定めますけれどね。その心定めますけれども、どういうような生き方になったら真心になる事が、ここでは真心と書いてありますね。信心する人は何事にも真心になれよと。真心になれよと。なかなか、んで私やはり、ならこのみ教えを行ずることの為の心得と言うので( )
そこで、私共だんだん信心さして頂いておかげを受けて、神様の事が少しずつ分かってまいります。その神様が、言わば天地を丸うに生かしになさっておられるという神様というのと同時に、私共の例えば言うておること、行うておること、ね、全てが見どうしであり、引きどうしでおありになるという事。神様が見てござる。神様が聞いておいででござると。いうような頂き方。そこんとこに、その事を信じさしてもらうというかね。神様が見てござる。神様が信じてござると。神様が聞いてござるということを信ずる。
何事も真心にならせて頂く為のまた心得ということになるのじゃないでしょうかね。神様がここに、言わばいます。神様がここに聞いておってござる。もう心の中まで見どうしてござると。そういう私共も心がけにならして頂く事によって初めて、信心する人は何事にも真心になれるのじゃないかとこう思います。真心、いや真心。その真心は神様の一番喜んで下さることであり、私共といたしましても、真心にならせて頂くと言うところから真の道が分かってくるのでございますから。
真の道というのは、私は幸せな道、幸福な道だと言うてもいいと思いますね。ですから、皆が幸福になりたいのでございますから、その真の道をやはり分からなければいけんのです。それは私共が、何事にも真心になれよと。次の御神訓の中に、真の道を行く人は、肉眼をおいて開けよと、おっしゃっておる。ね。そこから、今度は真の道を行く。いわゆる、私共が幸福の道を、幸福の道をです、幸福を目指してその真の道を歩かしてもらう。ですからそりゃ、幸福への言わば、繋がっておる道なのだ。真の道というのは。
そういう道を私共が行じ、そういう道を歩かしていただくうちにです、体験に体験を積ませて頂く事によっていよいよ神様の間違えなさを分かるという事はです、ね、どういうことが分かるかと言うと、神様の氏子信心しておかげを受けてくれよとおっしゃる。その、神様の願いの中にはね、もうすべて、さまざまな事。それは苦しい事、または嬉しい事。さまざまあるんですけど、そのすべてが私共が真の道を行く為の、また幸福になって行く事の為の神様のお計らいであると。でそこを、神様の御都合だとまあ簡単に片付ければそうです。
どんな場合でも神様の御都合ですよと、だから言いうる信心にならなければならないということが。ね。昨日、久留米の佐田さんが二度目のお参りをなさった時に、とにかく先生、もうどうしてと言うような事が、もう私共の信心さして頂くこの世界にないと言うのです。どうしてそげなんことになったかということがないと。みんな神様の御都合なんですからお礼を申しあげて行く以外にありませんと言うのです。ね。
ご自分の昨日一日の体験から、それをはっきり言い切れるほどしに分かってみえたということになるわけですよね。これは、一日の体験じゃない。今まで信心の稽古をさせて頂いてまいりました、その体験から、それを日々確かめていく。まあほんとに神様の働きの中には一分一厘間違えが無いということは、どのような事にでもこのように無駄がないという事。それを日々自分の生き方の中にですね確かめて行くという生き方。そういう生き方がね、私は信心する人の生き方であると同時に、真の道を行く人はと言う事になるんだと思うです。ね。
ですからこれが、体験に体験ずけられてまいります時にです、ね、それが積り積もって、言わば安心の徳ということになるのじゃないでしょうか。どういう事が起こっても、どういうような場にあっても神様の御都合ですよと。ならどういう御都合ですかと。氏子におかげをやりたいばっかりの御一念、そういう御都合ですよと言いきれれる、そう思いこまして頂けれる生き方。そういう生き方こそ、ね、不平がない、不足がない、とり越し苦労をせんで済む生き方になってくる。
人間の幸福は、まあそのへんからいよいよ本格的な人間の幸福ということになってくるのです。合楽の方達の信心がこうして、長年続けられておるのは、そういう神様の間違えなさというものをだんだん身につけておいでられておるから続けられるんだと思うですね。いや、その事がだんだん有り難くなって来る、楽しくなって来るんだと思うです。信心はやはりそういう楽しくなってこなければいけません。
そこからね、私は、肉眼をおいて心眼を開けよとおっしゃる。もう、いわゆる神様の御都合ですからとこう言えたり、思い込みれたりすることはね、もうすでに肉眼をおいて心眼を開いておる姿です。信心しよってどうしてこういう事が起こってくるじゃろうかと。そりゃ困ったのう、そりゃそげなんことしでかしてっともう責める事もいらなければ、その、ね、それは肉眼の世界を持ってするから、そりゃどうしたことか、そりゃ困ったという事になるのです。
肉眼の世界。ね。もうほんとにそれを日々私共体験さして頂いておる。いわゆる肉眼をおいて心眼を開くということですね。心眼を開いたと言う人の姿というのは、もう昨日の佐田さんの言葉じゃないですけれども、ね、ほんとに無駄が無い。無駄が無いどこじゃない、神様のお計らいと言うものは、こういうおかげをくださる事のためのそれだというわけなんです。ですから、ここに肉眼をおいて心眼を開けと言うておられる事の意味がこう分かる気がいたしますね。
すべてを神様の御都合ですよと言いきれれる。それを信じれれる人はもうすでに肉眼をおいて心眼を開いておる人だということが言えます。例えば、ここでよく皆さんが、御神眼ということをよく言う。御祈念中にさまざまな神様からお知らせを頂きます。なるほど、心の眼を持っていろんな物体、姿といったようなものを拝ましていただくですね。
私共もこうしてお話させて頂くにあたっても神様からそういういろんなお知らせを頂いたり、ヒントを得たりしておかげを頂くわけですけれども、なるほどそれも、肉眼をおいて心眼を開いた姿であろうとも思いますけれども、言わば、最近私が申します、何処にでも通用する心眼と言うのはそういうのじゃないでしょうか。ね。ある人が、あの御神眼やら頂く人は、ありゃちったあ、人間のよかごたるとしか頂かんごたっちゅうてから言いよる人がありますです。ですから確かにそうかもしれませんもんね。そういうやあ、私ごたる馬鹿んごたんっとしか頂かんです。
あんまり気の利いた人は頂かん。あんまり頭のいい人はよう御神眼なんか頂かん。( )人間のよかごたるっとしか頂かん。ですからそれではですね、世界中の人が心眼を開くということの、例えば和賀心学と言ったようなことを申しますが、和賀心を持ってしても心眼は、言わば馬鹿んごたっとしか開かれんと言う事になれば利口な人は心眼は一生開かれんという事になりますからね。
けども、今日言う、例えば肉眼をおいて心眼を開けと言うのは、例えば神様の御都合だと信じれれる、全ての事が。ね。ならそれをどういう御都合かというと、氏子幸せにせねばおかんという神様の願いがそういう事になって来るんですから、どうしてそういう事になったですかと、そりゃ困ったですねという事はないという事。無駄は無いという事。もう信心させて頂く者にはどうしてちゅうことはいらんですね。もう、どうしてという言葉はなくしてしまっていいですねという、例えば佐田さんの言われる。そこなんです。
それをなら、私共が日々の信心、体験からそれを言いきれれる。なら佐田さんがそういっておられますけれども、また今日、また明日、また明後日と日を重ねて行くうちにです、はあっということになったり、はあどうしてということがやっぱり起こってくるに違いありませんけれども、その事に直面しながらです、よくよく思うておりますと、はあこれはやっぱり神様の御都合だ。御都合より他じゃないということになる。
それを、確かめた上にも確かめて行く生活。神様の御都合であるということをです、ね、間違えなさということを確かめて行く生活が私は信心生活だと言うてよいと思うですね。ね。そういう面においてです、私共の心が開けて来る。そこでなら、信心のない人、または肉眼を持ってばかり見ておる人が、さあ困っただあとこう言っておる場合に、心の眼を開いた人は、いやいや神様の御都合ですがっと言えれる。
日々ののように、中村さんがお届けされる中に、もう先生おかげを頂いてね、腹を立てるという事がなくなりましたとこう言う。ね。もう腹を立てるという事がどのくらいおかげの邪魔になるかとこと。それこそ日々体験して来たわけです。信心・・・。そして最近ではです、腹を、ほんにもうこれが昔ならどげん腹を立てたか分からんけれども、ここを腹を立てんで済む自分が有り難いと思うとるとです。ね。
もうほんとに、言わば、信心のあるものじゃなからな分からん、不思議な不思議な働きになっておかげが頂かれる。もうすべてをそこらへんのところに神様のおしょうばいをなさっておられますから、場合にはお客さんが少ないような時もある。なら晩に出てきてから、もう今日はおかげを頂きましてもうゆっくりさせて頂きましたから家事の事、家庭の事。家庭の事があれこれもう山積みになっておりましたのが、あれもこれも解決しておかげを頂きました。いわゆる今日、お客さんが少なかったのはそういう事をさして下さる事の為の神様の御都合だったというふうに頂とるわけなんです。
昨日なんかはもう、それこそ、もうほんとにこれだけの事がどうしてさばけるだろかというぐらいにお客さんがもう次から次と沢山あった。もう最後に、あの、洗い物なんかする時にゃあ、洗物しながら眠るほどにあった。一日お使い回し頂いて、神様の御都合にはもうおそれいってしまう。と言うようなおかげがちょっと自分の心の使い方ひとつ。もう、それこそ腹どん立てちゃ馬鹿らしかとまあ言うならばそういうことですけども。馬鹿らしかということよりもですね、腹を立てるということが、いかにつまらない事かということをね、思えたり、言えたりする事はどういうことかというと、全てが神様の御都合ですよという事が分かって来よるからです。
そりゃあれだけ沢山な、その、お客さんが見えますし、中にはお酒を売っておられますから、お酒を頂いて、まあいろんな事を言うたり、したりする人もありますでしょう。ね。けれどもそれがね、もう、それが神様の御都合と分かっておるから腹を立てんで済む。腹を立てんで済んでおるおかげをいただいておるとです、ほんなこて、腹を立てちゃ馬鹿らしかというようなおかげがそこにはっきり見えてきておる。というわけなんですよ。
大変な事をね、中村さん。大変な有り難い事になっていって、まあそれをお届け聞くたんびにそういうふうに申します。ほんとにもう、ほんとにこういう有り難い信心を頂いたという事は、こりゃほんとにいくらお礼を申してもお礼を申しても足らんねと言うことだ。ですから、信心が楽しゅうなってくるはずですよね。神様の御都合と。ね。言うなら、信心する人は何事にも真心になれよということがですね、もう神様が見ておいでじゃから、神様が聞いておいでじゃから。ということが信じられてきた。
だから、ここで心ども汚しとっては馬鹿らしい。いや、神様に対してからあいすまん、いや神様に笑われるという事になってくるんじゃないでしょうか。せっかく信心さして頂きよる者がこんことで腹を立てよる。そげなことじゃ神様から笑われる。神様が悲しみなさる。そこから、不平もなければ不足もない。すべてを、そりゃなかなか難しい問題もありますよ。けれどもその難しい問題に取り組んでです、ね、きっとくる、時間は掛かるけれども心は有り難いという心を、答えは腹を立てんで済む有り難いという心が出て来ておるという、そういう稽古を日々さして頂いておる。そのような言わば道を行く事をならっておる。真心になれよという次の真の道を行くとこうおっしゃる。私共は真の道を行っておる人の姿が私はそうでなからなければならないと思うです。
肉眼をおいて心眼を開けよ。真の道を行って、歩いて行っておる、行じていっておるうちにです、いよいよ肉眼をおいて心眼が開けて来るわけです。その心眼を開いた人の姿というのはです、ね、そこには一つのそつも無駄もない、全てが神様の神愛、全てが神様のお働き、どのような事があっても、さあどうしましょうかというような場合でも、神様の御都合ですよと、心配いりません。神様の御都合ですよ、これがおかげの元になりますよと言いきれれる私は人を心の眼を開いておる人の姿だと私は思います。
ですから、例えば今ずっとこう申してまいりましたことをですね、こう、あの、あやふやなものにする。そういう思い方を崩してしまう生き方。そういう思い方を薄いものにしてしまう、言わば行動というか、あり方っていうのが、あの御理解84節にですね、おごりがましいことをすな、というところがありますね。細うても長う続かねば繁盛ではないぞと。細い道でもしだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。と。私共がそうして真の道をね、歩かせて頂いておるその道に草を生やすなと。
それは、いっぺんにバアーっと広がることだけがおかげではない。細うても長う続いてしかもそれが八の字開きにです、しだいしだいに広がっていくというのが繁盛じゃと。それこそ目の覚めるようなハアっとしたおかげを受ける事が繁盛じゃない。細うてもそれが長う続いていくということだ。それには、おごりがましい思い、おごりがましい事をすなと教えておられる。このおごりがましいという心をですね出しますとね、ね、暴弱無尽の振る舞いをいたしましたり、ね、神を神とも思わないような、言わば生き方。いわゆる暴弱無尽と申しますね。
または、自分の信心、自分の徳も顧みらずにおごりがましい事を平気でやってどける。そういうところをですね、今日の御理解から慎ませていただかなければならん。そういう心がでますとね、今日私が申してまいりました、もう実に信心する人は何事にも真心になれよというところをです、これが信心の心得なんだけれども、なら、信心になるという事は、にはどういう心得がいるかということにまたなったきた事を話しておりましたですね。話しましたね。そして、次のいわゆる、肉眼をおいて心眼をひらけというここんとこを二つ続いて次のところの御神訓を持って、何事も真心になれよということをまあもうしましたわけですけれども。
その順序立てて、いわゆるそのまた心得、またその心得といったようなことだったですね。今日の御理解は。ですからそういう気になると、なら中村さんの生き方じゃないけれども、いわゆる腹を立てんで済みますというところまで行くんです。佐田さんじゃないですけども、もうほんとに私共の生き方の上には無駄というものはない。どうしてというような言葉はもう使わんで済むようになるというところまで高度なものになってくるんですよね。
けれども、それもなら、筋道を立てて、言うならば、一段一段それを稽古して行く気になる。今日私が、申しましたような事になってまいりますとです、ね、誰でも出来るというのが金光様のご信心。真の道には誰でもが入れるという事が、その気になれば入れるという事が分かるでしょう。その気になれば真の道に誰でも入れる。しかも、その真の道を歩かしていただきよるうちにです、肉眼をおいて心眼を開いて行く事すらが出来て来る。そこには、神様の御都合ですよ。ね。言いきれ、思い込まれる生き方。
だからそのようにです、なら、目の詰まった生き方をするのはさほど難しい事ではないという信心の稽古が出来ます。と言うことをですね、いっぺんに不意にしてしまうような、ね、それを薄いものに、神様の御都合ですよとか、ね、私共の生き方、あり方、生き方の上に神様の働きというものは無駄というものはけしてない。だからどうしてなどということは言う事はいらんほどしのおかげを頂けていけれる道を歩きながらね、私共が心の中に起こします、いわゆる、おごりがましい心というそのような心。
言わば、神様を軽う見ておる証拠と思われるような暴弱無尽の振る舞い。ね。そういうことをです、私共が、まあうかつに、または平気に、ね、それをやっておりますとここんところが非常に実感のない薄いものになってまいります。ですから、こういう例えば今日二つの御神訓を持って、お道の信心の生き方というものが、確かめられてくる。日々そこんところをまた確かめて行く生活を信心生活だと、まあこの二つのみ教えからで、だけでも頂かれる、感じられる。
だから、それをいよいよ本当なものにしていく、また心がけがおごりがましい事をすなということになるのです。まっ、またその心得です。ね。その例えばおごりがましいとか暴弱無尽の生き方といったような、いわゆる実意をかいだ生き方なんですねいわゆる。そういう生き方が、また実を言うたらですね、難しいとですよ。ならそれをせんで済む心得、心がけっていうのがまたあるんですけれどもね、まあこの辺のところで、まあ打ち切らせていただきますけれども。ね。
私は真の道を行くとか、信心をするものは何事にも真心なれ、まごころになれという事はそういう例えば、その心得と言うか、ね、信心の心得とおっしゃる。信心をさして頂く為の心得として何事も信心になれよと。なら信心になるにはどういう心得がいるかというようなことをね、まあ言うなら、さっきのお話でも申しましたように、私共の信心生活の中に、いよいよ神様の間違えなさを日々確かめていけれる、一番身近な私は頂き方。一番神様を身近に感じる事の出来れるんじゃないかと。ね。
それを私共は今日、信心する人は何事にも真心になれよということをです、信心する人は何事にも真心に信心になれよと。このみ教えを私共の生き方の上に現してまいりますなら、神様が身近に寄り添うて下さるようにです、神様をそこに見たり、そこに感じたりする事が出来る。だから神様が見てござる。神様が聞いてござる世界に生き向かせて頂く生活を信心生活だと言う事も、また言えれる。そしてそこから、肉眼をおいて心眼を開かしてもらえれる生活が開けて来るわけですね。どうぞ。